火曜日、連続記録が途切れた。計画的じゃなかった。遅くまで電話があって、疲れて、気づいたら十時で、ただ行かなかった。四十七日間歩いた。大した数字じゃないけど、自分のものだった。終わった。ベッドに横たわり、その不在を靴の中の小石のように感じていた。
今週のこと
水曜日、起きてもまだイライラしていた。足首が少し張っていた。歩いたからじゃなく、歩かなかったから。不公平に思えた。夕方に行こうと自分に言い聞かせたけど、夕方になっても行かなかった。木曜日も同じ。金曜日には、習慣を完全に失ったという物語を作り上げていた。大げさだけど、そのときは本当にそう感じた。
土曜日の朝、計画もなく靴を履いた。角まで歩いて戻って、十二分。アプリも音楽もなし。濡れた落ち葉の音だけ。家に帰って、しばらく玄関の段に座っていた。カムバックではなかった。ただの散歩だった。
試したこと
なぜ空白がこんなに重く感じるのか、考えてみた。一部は数字のせいだ。四十七日連続というのは形があって、それを壊すのはグラスを落とすような感じだった。歩くことを、チェック項目のように扱い始めていたことにも気づいた。自分が望んでやることではなく。三十日目あたりから、空を見上げなくなっていた。
だから日曜日、小さなことを試した。タイマーなしで歩いた。スマホは家に置いた。いつもと違うルート、生い茂った生け垣とでこぼこの舗道がある道を選んだ。足の裏に意識を向けた。思っていたより難しい。頭は何度も歩けなかった日に飛んだが、そのたびに地面に引き戻した。
学んだこと
間違いがあるとすれば、連続記録そのものを目的にしてしまったことだ。歩くことを、たった一人の観客のためのパフォーマンスに変えてしまい、そのパフォーマンスが失敗したら、すべてが台無しになったように感じた。でも、僕の脚は連続記録が途切れたことを知らない。ただ、三日間あまり動いていないことだけを知っていた。
もう一つ。再開への恐怖は、いつも実際に始めることよりもずっと大きい。土曜日、最初の二分間は泥の中を進むようだった。四分目には、なぜあんなに心配していたのか忘れていた。頭の中の空白は峡谷のようだった。足の下では、ただの数日だった。
十二分で十分だということも学んだ。以前は、散歩は少なくとも二十分は歩かないと意味がないと思っていた。でも、そのルールは自分で作ったものだから、変えていい。十二分で家を出て、呪縛を断ち切れた。次に一日抜けたら、五分だけ試してみようかと思う。
これから
新しい連続記録は始めない。ただ、明日歩く。明後日も、気が向いたら歩く。分数を書き留めるかもしれないし、書かないかもしれない。数字が鎖である必要はない。
水曜日はまた雨らしい。たぶん、それでも行くだろう。行かなければならないからじゃなくて、フードに当たる雨音が好きだったことを、今思い出したから。それだけで十分な理由だ。



